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Bruco - American Garage Equipments » Product Tags » MID CENTURY https://www.bruco.co The Time Proven Garage Equipments Mon, 22 Jun 2015 06:50:32 +0000 en-US hourly 1 https://wordpress.org/?v=4.2.37 Bell Dust Waterproof Receptacle Cover 2 Gang https://www.bruco.co/?product=buco-dust-cover https://www.bruco.co/?product=buco-dust-cover#comments Sat, 21 Jun 2014 16:58:38 +0000 http://www.bruco.co/?post_type=product&p=156

Frontier Meets Pacific

 

”西部の開拓前線が西海岸まで到達し、もはやフロンティアとよべる地域を国内に見出すことはできない”。1890年のUSセンサスは合衆国の歴史がひとつの大きな節目を迎えたことを告げた。しかしフロンティアは消え去ってしまったことで逆にアメリカ人の起源というフィクションの舞台として神話化された。荒野を駆け抜けたカーボーイやアウトローたちは現実の世界での行き場所を失った替わりに、アメリカ人気質を表象するシンボルに祭り上げられていった。このとき、現実の世界で、消失したフロンティアに替わって出現したのは国内市場の重要な担い手としての中西部、西部だった。中西部に出現した酪農地域、東部海岸地域に発達していた工業地帯、そして南部では黒人が奴隷解放の名のもとにプランテーションを追われ、困窮の中さまよっていた。

 

Chicago Bound

 

アメリカの中北部、ミシガン湖の南西岸に位置するシカゴは、東部と西部、南部と北部、生産地と消費地を繋ぐ集積地・中継地としての地勢的利点をそなえていた。鉄道網、運河航路が放射状に発達し、胎動する国民経済をつなぐ血脈のごとく19世紀後半から20世紀前半にかけて各地の経済・産業を連結してゆく。やがて流通・交通のハブとしてだけでなく、食品加工・鉱工業・製造業、金融など、商工業の中心地に発展しいく。さらに、大都市となったシカゴはモノ・カネだけでなくヒトも呼びよた。東欧南欧からの移民、デルタをあとにして北上する黒人達、大都市に巣食い暗躍するマフィア、そして彼らが開花させた大衆音楽・芸術・文化。NYに次ぐ巨大都市となったシカゴは20世紀前半のアメリカのダイナミズムそのもののような存在だった。

 

Bell 1946

 

そんな1946年のシカゴで小さな電気部品の会社が創業する。その会社は創業者フランクベレックの名をとってベルと名付けられた。ベレックは生産設備に電力・電機を利用した設備・デバイスが急速に普及しているにもかかわらず、防水防塵の不備から漏電や腐食による故障や感電事故が多いことに目をつけ、No Shockというブランド名でアメリカで初めての防水・防塵電気部品の製造と販売を始めた。当時シカゴには電気機械の製造業も集中していたが防水パーツに特化したメーカは他になく、No Shockは大ヒットとなった。Bellブランドは防水製品のトップブランドとして広く知られることになり、その結果アメリカでは防水の電源ボックス一般をBELL BOXと呼ぶようになった( ホチキスやポストイットと並ぶ一般名詞として定着した)。

 

Touch of Chicago Mid-Century Industrial

 

工業製品のデザイン変更が頻繁に行われる日本の常識からすると考えられないことだが、1940年代に発売されたNo Shok以来、BELLの電源ボックスは基本設計を変えることなく今日まで、現在でも製造・販売されている。大げさで古臭いリブ形状と、戦前の劇場看板のようなBELLのロゴ、そしてこの無骨なマシングレーの塗装。シカゴが最も輝いていた時代、そしてアメリカが世界の工場だったころの古き良きインダストリアルデザインがこんなちょっとした電気パーツにまで封じ込められ、しかも現在まで脈々と生き残ってきたことに感動せずにはいられない。一部のコレクター向けの復刻販売ではないし、レトロっぽくデザインしたわざとらしい新製品でもない。そのまま生産されつづけ、意図せずして選ばれ続け、使われ続けてきたという事実がいちばんクールで、かつ簡単にはマネできないところでもある。フロンティアだとかカウボーイなんかよりも、そういうところにこそ無意識のうちに共有・伝承されている国民に共通の感性・価値観すなわち文化のようなものが現れるものだから。

 

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IBM USA WALL CLOCK 1960S https://www.bruco.co/?product=glass-teapot https://www.bruco.co/?product=glass-teapot#comments Fri, 31 Jan 2014 14:23:02 +0000 http://planetshine.net/test/callisto/product/glass-teapot/ ■ International Business machine

IBMという会社の名前を聞いたことがないというビジネスマンはおそらくいない。そしてこの会社がコンピュータ大手の企業であるということも同じくらいよく知られた事実である。しかし、このIBMという会社の正式名称を知っている人となると以外と少ないのではないだろうか。そしてさらに、コンピュータというものが世の中に登場する以前、IBMが何を作っていたか、知っている人はもっと少ないのではないかと思う。

IBMは正式名称をInternational Business Machine Corp.といい、その源流は1911年に創業したCRT(computing Tabulating Recording Company)にさかのぼることができる。CRTとはパンチカードによる大型の計算機のことで、コンピュータ前史における事務処理機器のボスキャラであった。初代社長ThomasJWatsonSr(シニア)は官公庁のCRT需要に目をつけて会社を急成長させた。しかし、それまでのIBMは他にもタイムレコーダ、工場・学校などの時計システム、はては食料品の計量器具やスライスマシンまで手掛ける”よろず”産業機器メーカであった。当時のロココなロゴマークが物語る通り、今日我々が思い浮かべるIBMのイメージとは少々趣きを異にする会社であった。

1950年代、先代から会社を引き継いだ実子、ThomasJWatsonJr(ジュニア)は先代の経営フィロソフィを継承しながらも未だ黎明期にあり将来性の定まっていなかったコンピュータ事業への資源集中と汎用コンピュータ開発のための巨額投資という大きな賭けに出た。後にFortuneに”50億ドルの賭け”と報じられたこの社運を賭けたトランスフォーメーションは1964年のSystem/360に結実する。ジュニアが”IBMの歴史上で最も重要な製品”と評した通り、System/360と後継メインフレームの成功は企業向け事務処理・研究開発はもとより、軍需・宇宙開発などの国策プロジェクトまで幅広く採用され、エンタープライズ・コンピューティングのみならず、その後のハイテクセクターにおけるIBMの圧倒的な存在感を決定づけた。良くも悪くもエスタブリッシュで権威主義的・官僚的な今日我々が知るIBM像はこうして誕生した。

しかしジュニアの慧眼は事業シフトだけにとどまらず、より抽象的な意味での”デザイン”がいかに企業イメージを左右するかをも見抜いていた。1950年代、CorporateIdentityという言葉さえ存在しなかった時代に、MOMAのキュレータも務めた建築デザイナElliotPaulを筆頭に、グラフィックデザイナPaulRand、工業デザイナーCharles and Ray Eamesらが招集され、Corp Design Projectはすすめられた。それは単なるつけたしや目新しさをねらった表面的で装飾的なフェイスリフトとは対極にある根本的な企業アイデンティティの見直し、再構築の試みだった。より大局的な視点でとらえれば、ジュニアが断行した事業シフトや研究開発投資でさえ、IBMの存在価値をラディカルに解釈し直し、企業そのものをデザインし直すという作業の一環にすぎなかった。

もうひとつ、ジュニアは社長就任とほぼ同時にロゴマークを変更している。PaulRandのデザインによる新ロゴは一見すると単なるフォントタイプの変更という些細なものだった。このため新ロゴはContinuityLogoと呼ばれ、ジュニアが先代の経営方針を継承する意思を表明したものと解釈されている。しかし、この新ロゴこそ、International Business Machineとの決別、IBMー”アイビーエム”というアイデンティティへのシフトを象徴していた。無論それまでも、IBMのロゴは存在した。しかしそれは正式社名のイニシャルをとった省略形としての存在にすぎなかった。新ロゴとその後の社名呼称ではこの正副が明確な意図をもって逆転された。ジュニアは新ロゴによってインター~よりもはるかにシンプルで斬新なIBMというIdentityを提示したのだった。表面的にはコスメティックに過ぎないような変更にこそラディカルな変革への意思が示唆されている。”変革は大局的に見た場合には継続性の中でもたらされる”。ジュニアの言葉は通常の解釈とは逆にこの意味で解釈されなければならない。

”会社のイメージを刷新するために、なんていって玄関ロビーに大きくて難解な抽象画をかざって済まそうとするタイプのデザイナーとは少しちがうんです、私の場合は。”-ElliotNoyes

”ロゴデザインで一番大切なことは他と区別できてすぐその会社と判ること、そのためにはシンプルであることが最も有効な手段となるんです。”-PaulRand

”制約事項というのはデザインを阻害する要因ではありません。優れたデザインとはむしろ、できる限り多くの制約事項を見つけだし適切に把握して、いかにしたらそれらの要件を満足しうるかを追及する作業によって導びき出されるものなのです。”-Charles Eames

”何か特定の目的があって、それを一番効果的に達成できる方法を考えること、それがデザインなのです。”-Charles Eames

優れたアートワークは多くの場合、足し算でも掛け算でもなく、徹底した引き算によってもたらされる。チームの野心的な試みとそのコンセプトはこのシンプルで力ずよく、それでいてモダンな傑作ロゴデザインの中に見事に凝縮して表現されることになった。

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